学校の先生を辞めました
実は、ほんの半月前に、
学校の先生を辞めました。
ずっとなりたかった、小学校の先生になって、
1年で産休に入り、2年のお休みをいただいた後、
色々なことを考えた後、
退職する道を選びました。
教師を辞めた理由
教師を辞めた理由は、
- 家族との時間を大切にする人生の方が
良いと思ったから。 - 自分の適性に合わせた働き方をした方が
長期的に考えて良いと思ったから。 - 学校教育を100%正しいと
思えなくなってしまったから。
この3つです。
1.家族との時間を大切にする人生
必死の教師人生
復帰したら私は今まで以上に仕事に打ち込まなければ、良い教師にはなれないと思いました。
なので、育児休暇の2年間、復帰に向けて教師向けの本を読みあさったり、通信制の大学に入って新たな免許を取得したりしていました。
でも、復帰後の自分の生活を思い描くと、自分は幸せそうではありませんでした。
祖父母に子供を丸投げし、学校からのお手紙に目を通すのが遅れて、子供にも先生にも迷惑をかけ、「私は忙しいのよ」と言わんばかりに主人に八つ当たりする自分が見えるのです。
朝早く出勤し、夜遅く帰ってきて、みんなが食べ終わった後の食卓で、ワイワイとお風呂に入ったり寝る支度をする子供たちの横で、一人もそもそとご飯を食べている…
そんな映像ばかりが浮かぶのです。
辛いことばかりではないが…
もちろん、教師の仕事というのは、一つ一つを取り上げると、どれも楽しいし、やりがいがあって達成感があります。
やり出すと、辛くても辞められなくなる一種の中毒性があります。
「先生、先生、今日こんなことがあってね…」と子供たちが我先にと寄ってきてくれる日常は、本当に幸せです。
でも、やっぱり私生活とのギャップが苦しいのです。
自分の子供となかなか関われず、一緒にいられないことへの焦りが募ります。
毎日、一緒に朝ご飯も、晩ご飯も食べたい。
お母さんの作ったご飯の味、ちゃんと知っていて欲しい。(ご飯ばっかりだな)
自分の血を受け継ぎ、マイペースすぎる上の娘が小学校に入学するタイミングだったので、登校や宿題、時間割などのサポートをしてあげたい気持ちが大きくなり、退職するきっかけになりました。
自分の適性に合わせた働き方をしたい
実は復帰予定だった
実は、直前まで職場復帰する予定でいました。
私はADHDなので、職場復帰に向けてコンサータという集中力を高めると言われる薬の量を増やしているところでした。
赤ちゃんを産んで、授乳が終るまでは薬が飲めなかったので、断乳した後、少しずつ薬を慣らして、増やしていたのです。
診断の経緯
自分がADHDであると知ったのは、小学校の先生になって半年ほどした頃でした。
毎日、ミスだらけで笑えないレベルでしたが、ある日、あまりに信じられないミス(というか、物忘れ)をしてしまい、自分の神経を疑ったのがきっかけでした。
それから病院に行くと、その日のうちに「かなり強烈なADHDなので、詳しい検査をするまでもないです」という感じのことを言われ、緊急性が高いという理由で即日、コンサータというお薬を処方してもらいました。
もともと、ナルコレプシーという過眠症の薬(リタリン)を飲んでいたことがあったので、それと成分の同じコンサータなら大丈夫でしょうという判断のもと処方されました。
それからしばらく、飲んでいると仕事がはかどるような気分になれましたが、それと同時にADHDを自覚したせいなのか、薬のせいなのか分かりませんが、心が不安定になることが増えました。
(わりと楽観的な性格なので、本来、うつ病になるタイプではないと思います。)
急に不安になって、学校に行くのが怖くなってしまって震えたり、涙が出たりしました。
そのために、気休めにリーゼという精神安定剤を出してもらいました。それがあるとなんとなく安心できるという日々でした。
妊娠と薬
しかし、その数ヶ月後に妊娠が分かったので、薬が飲めなくなりました。
つわりや妊婦独特の眠気と戦いながら、余計にミスや仕事のこぼれが増えていきました。
学校全体に相当な迷惑をかけたと思います。子供や保護者にも迷惑がかかったのが、今でも心苦しいです。(子供や保護者はとても優しくていい人が多かったのが救いでした。)
他の先生に私の遅れた仕事を手伝ってもらいながら、なんとか1年間過ごすことができましたが、同じような過ごし方はもう二度としたくありませんでした。
だから、かなり気合いを入れて復帰に向けて準備していたというわけです。
そのために薬も最大量まで増やし、一生飲み続ける覚悟でいました。
ふとした疑問
だけど、ふと思ってしまったのです。
正規の職員になって担任を持つまで、私は自分がADHDだと本気で思ったことはなかったし、病院に行かなくちゃと思うほど困ったことはなかった。(ADHD傾向があると昔から思ってはいましたが。)
つまり、この仕事をしなければ、もしかしたら「おっちょこちょいで、天然ボケが強い真子ちゃん」のまま一生を終えていたかもしれなかった。
……あれ?
…学校の先生、向いてないんじゃないかな?
やりたい、だけじゃダメなんじゃないかな?
仕事っていうのは、
役に立ってこその仕事であって、
迷惑かけてまでしがみつくものじゃ
ないんじゃないかな?
そういう気持ちが高まり、家族との時間を大切にしたい気持ちもあって、
主人に相談し、辞めることにしました。
学校教育を100%正しいと思えなくなってしまった
約10年間の積み重ね
学校の先生を辞めようと決めてから、校長先生に退職の意思を伝える電話をするまで、とても悩みました。
私は中学校の先生を6年し、
小学校の免許を取り直すため大学に4年通い、
小学校の先生になって1年働き、
その後、育児休暇を2年とっていたところでした。
つまり、長く夢を叶えるために時間を費やしたのに、目標の小学校の先生になってから、たった1年しか働いていないのです。結論を出すのは早すぎるのでは?という気持ちがよぎります。
まだ、やってみたいこと(合奏の指揮やおもしろい視点の研究授業)などがまだできていないのに、体験せずに辞めるのか?という迷いもありました。
しかも、学校の先生を辞めると言っても、仕事はしたかったので、再就職に向けてハローワークに行ったりマイナビエージェントなどに登録して仕事を探したりしていましたが、なかなか理想の職に巡り会えませんでした。
そうなると、「本当に辞めていいのかな?」と迷い始めます。
やっぱり、先生以上に素敵な仕事はないんじゃないかな?
と思い始めるのです。
その悩みを断ち切るために、私は辞めると決めてから色々な本を読みあさりました。
新しい価値観との出会い
そこで出会ったのが、
堀江貴文さんの
「すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 」(光文社新書)でした。
”学校は国策「洗脳機関」である”
”学校とは、国家に従順な国民を養成する機関”
という話が、私の中の色々な疑問のかけらをワンピースのようにつなぎ合わせてくれました。
そうか。
だから、「どうして勉強しなくちゃいけないの?」の答えが、どれもすっきりした気持ちになれなかったんだ…
そうだ。
だから、学校の職業教育は、すべて「会社に就職することを前提とした教育」だったんだ。
だからわざと、子供のうちにお金の稼ぎ方なんて知らないほうがいい、みたいな価値観があるんだ。(というか、先生も自力で稼ぐ方法なんて知らない)
ああ。
会社で働くことしか知らない普通の人を量産したいから、特殊な人間は適応できずに困るんだ…
そんな思考が生まれ始め、学校教育を批判する考えの本を読むうちに、学校教育に疑問をもつようになってしまいました。
変化した目標
「私が教えたいのは、国語や算数や道徳じゃない。
学習指導要領の掲げる生きる力でもない。
もっと本質的な『生きる力』だ!」
と思うようになっていきました。
その考えが大きくなる頃には、
もう学校に戻ろうとは思わなくなりました。
それから私は、校長先生に退職の意思を伝え、
迷いなく、教師を辞めることにしたのです。
(誤解しないで欲しいのは、私は学校教育を自分が教えたくなくなっただけで、学校の先生は大好きなままです。)
忙しすぎる環境がADHDを悪化させる
ADHDの薬の効果
実は、今の私はもうコンサータというお薬を飲んでいません。
仕事を辞めることにしてから、コンサータを飲み続けるかどうか迷っていたし、一時的に保険証がなくなるので、病院に行けないなあと思っていたところでした。
そのタイミングで、西洋医学の薬の怖さを耳にしたので、薬を飲みたくない気持ちになってしまいました。
それについての記事はこちら→【adhdが急増している理由を考察-】adhdは架空の病気
それからもしばらく飲んでいたのですが、おもしろいことに、コンサータのような精神刺激薬は「プラセボ効果(思い込みによる効果の強化)」に左右されやすいお薬なので、私はコンサータがまったく効かなくなってしまいました。
薬をやめてからのこと
だから、それから飲まなくなったのですが、飲んでいたときと生活の質は何も変わっていません。
むしろ、今の方がテキパキ動くし、自主的に勉強もする分、良いのではないかと思うくらいです。
忙しい仕事をしなくなってから、ADHDの症状に追われる生活はしていません。
私は書類の見落としが多くて、ミスなしで書類を完成させることが少ないのですが、仕事でなければゆっくりできるので、それほど困ることはありません。
自分に合っていない環境だと、自分の苦手な部分が悪目立ちするのは、言ってみれば当然のことです。
だから、自分に合った環境を選ぶことは、どんな特性をもった人にも共通する解決策であると思います。
ネガティブな理由で仕事を辞めると、どこにいっても同じ結果になる、とよく言われますが、働き方そのものを変えるというのは、有効な解決手段だと感じています。
これからのこと
退職後の模索
退職後、退任式も送別会も終え、本当に学校の先生ではなくなりました。
退職を決めたのが、年末から新年にかけての頃で、そこから私は必死で次の仕事のために勉強をしました。
就職したい仕事がなかなか見つからないし、家族との時間を作りたくて辞めたのだから、それが叶う働き方でないと意味がないと思い、模索した結果、フリーランス(自営業)でビジネスをしようと決めました。
しかし、生まれてこの方、学校にしか通ったことのない私。
商売の基礎も、お金の感覚も、何もありません。
とりあえず、メルカリでいらないものを売るくらいしかできません。
クラウドワークス(個人間で仕事の受注ができるサイト)でライターの仕事を見つけて引き受けるものの、最初の20記事を書くまでは1文字0.2円で、しかも1万円に達するまでは支払われないシステムでした。
すっごくたくさん時間をかけて何記事か書いたのに、なかなか1万円に達してくれず、飽きっぽい私はモチベーションを維持できず、何千円かをドブに捨てたまま諦めてしまいました。
コピーライティングとの出会い
誰かからの依頼を受けて、誰にでも書ける文章を量産しても、時間の切り売りをしているだけで、あまり充実感が得られないと思いました。
でも、文章を書くことは好きだなと実感したので、色々な本を読みあさって勉強を続けました。
もう、普通の会社に就職したくない気持ちが強くなりすぎて、背水の陣のごとく、私は今までに無く勉強し続けました。
皮肉なことに、教師を辞めてから初めて、心の底から「勉強って楽しいよ!」と言えるようになったのです。
そして、ついにネットサーフィンの末、コピーライティングという文字を書く仕事と出会いました。
人とのつながり
4月になり、晴れて退職した私は、コピーライターとしての仕事を探し始めました。
最初に貰ったお仕事は、知人が新しく開いた学習塾のHP作成でした。この数ヶ月間に勉強してきたことを駆使して、良い物ができたと思います。
二つ目にいただいたお仕事は、イラストレーターとしてのお仕事でした。こちらも、知人からの依頼でした。8年ぶりに再会しましたが、本当に人との繋がりって大切だなと思いました。
ビジネスとは
今まで、ビジネスとは無縁の「学校」という箱の中でだけ生きてきた私ですが、ここ数ヶ月の本気の勉強の中で「ビジネスとは?」の答えを見つけました。
私のこれから展開していくビジネスとは、信頼関係の積み重ねです。
ビジネスを始めようと考えてから、この数ヶ月間に出会った人、関わった人たちはみんな、人との信頼関係を大切にしている人ばかりでした。
信頼をたくさん積み上げているから、頼ったり頼られたりという関係が出来上がるのだと分かりました。
素敵な世界だと思いました。
そんなきれい事ばかりじゃないよ、と思う人もいるかもしれませんが、私はそういう明るいビジネスをしていきたいと思っています。
これからやりたいこと
コピーライティングもできるイラストレーターとしての活動の幅を広げながら、同じように苦しんでいるADHDの人の力になりたいと思っています。
私は、お薬を使わないでできる栄養補給や生活の環境を整えることで、ほとんどの困り感を取り除けることがわかりました。それをこのブログなどでお伝えしていくことで、ADHDで悩む人が減り、イキイキと自分の才能を発揮する人が増えてほしいと思っています。
最後に
長文を読んでくださって、ありがとうございました。
私は、あなたが新しい人生のステージを見つけて、「あの時、思い切って決断してよかった!」という選択をすることを楽しみにしています。心から、あなたを応援しています。
どうぞ、よろしくお願いします。
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